2015年7月19日日曜日

敗戦70年〜非戦の決意を伝える北信濃の小さな寺の「石の鐘」の物語


 太平洋戦争下、金属類回収令によって供出させられた梵鐘の代わりに吊るされた「石の鐘」を、戦争の記憶を忘れず、非戦の誓いを守るために、吊るし続ける小さな寺が北信濃の小さな町にある。長野県信濃町、浄土真宗本願寺派「称名寺」。
 戦後
70年、戦争の記憶が薄れる中、憲法解釈が内閣の独断で変更され、海外派兵に道を開く法案が強行されようとしているこの夏、危機感をもって、この鳴らない「石の鐘」に込められた誓いを新たにする集会が開かれた。

 北信濃の黒姫山麓、長野県信濃町にある小さな寺、浄土真宗本願寺派「称名寺」の鐘つき堂には、梵鐘の代わりに、大きな自然石のかたまりが吊るされている。この鳴らない石の鐘は、太平洋戦争下、昭和17年、国家総動員法にもとづき、不足する金属を供出させる金属類回収令によって失われた梵鐘の代わりに、吊るされた「おもり」だった。重い梵鐘を失うと、鐘つき堂は安定が崩れ、倒壊の恐れがあったからである。
 この金属の供出は、寺の梵鐘だけではなく、社会の隅々におよび、子どものおもちゃから台所の鍋釜にも及んだという。

 戦争が終わり、多くの寺では梵鐘の再建が行われたが、この寺では、鳴らない石の鐘を吊るし続けた。戦争の悲惨を記憶に留めるためだった。それは、副住職(当時)の佐々木五七子さん(1929年生)の強い非戦の意思に根ざしていたといわれる。
 それは、また、近在の農家から満蒙開拓青少年義勇軍の兵士として、半ば強制的に満州に駆りだされ、その多くが帰らなかった少年たちをなすすべもなく見送った五七子さんの忸怩たる悔恨の思いに発するものだった。
 
1938年から敗戦までの8年間に義勇兵として駆り出された少年たちは、101千人。中でも長野県は、最大の6500人もの義勇兵を送り出した県となった。
 以来、70有余年、過去には、新しい立派な梵鐘を寄贈したいという多くの申し出があったが、五七子氏は、それを謝辞し続け、石の鐘は鐘つき堂に吊るされたまま、現在に至っている。
 この石の鐘のエピソードを、同じ信濃町にある黒姫童話記念館の館長、和田登氏が敗戦70年に『石の鐘の物語〜イネ子の伝言』(かもがわ出版)という児童文学として作品化した。2015718日、集会は、この作品のお披露目を兼ね、長野県の9条の会が主催して開かれた。
 会場となった信濃町総合センターの
2階大ホールは、300人以上の人々が参集し、ほぼ満席となった。人口9千人たらず(2010年)の小さな町の集会である。人々の関心の高さが伺えた。

 私は、この信濃町にあるナウマン象の化石で有名な野尻湖畔に小さな山小屋をもって22年になる。しかし、これまで、迂闊にもこの石の鐘のエピソードを知ることはなかった。今夏、安保関連法案に反対する各地の活動をネットで検索していたとき、偶然、長野県の情報の中にこの活動のことを発見し、強い関心をいだいた。そして、ぜひこの集会に参加し、また、この寺を訪ね、石の鐘をみてみたいと思うようになった。春学期が終了した日、台風接近の中、街頭にひびく安保法案反対の声にエールを送りつつ、この黒姫山麓の町にやってきた。
 集会に先立って、この石の鐘の実物を見ようと称名寺を訪ねた。県道96号線を信濃町から飯山市に抜けるあたり、富濃集落の中にある小さな寺である。石の鐘が吊るされている鐘つき堂の脇には、立派なシダレヤナギの老木があり、春にはそれを目指して訪れる観光客も多いという。参道の脇には、紫陽花が咲乱れ、紫陽花の花群をとおして、鐘つき堂がみえた。
 参道を登り切ると、中央に本堂、右手に住職が住む庫裡があった。事前に訪問を告げていなかったので、住職は不在で、庫裡の玄関は閉じられていた。逆の左手側に、鐘つき堂が静かに建っていた。
 たしかに、石の鐘が吊るされていた。屈強な大人の男でも、一人では抱えきれないような大きな自然石。失われた梵鐘に対する惜別の思いを表そうとしたのだろうか、その表面にはかすかに「梵鐘記念 昭和十七年…」と彫り込まれた文字が伺えた。
 石の鐘の手前には、鐘を衝く木の
橦木(しゅもく)も吊るされてはいるが、いたずらに石の鐘を撞いて壊さないように住職が橦木の位置をずらしたのか、その先には肝心の鐘はなく、ただ中空を無為に揺れ動くだけになっていた。鐘つき堂から石の鐘の向こうに目をやると、そこには、夏を迎えた北信濃の農村風景がおだやかに広がっていた。

 集会は、午後5時から始まった。会場の信濃町総合会館の2階大ホールは、参集した人々の熱気のせいか、普段は黒姫山からの冷風のため冷房設備のない部屋はすいぶんと蒸し暑かった。
 集会では、最初に、元信濃町町議会議長の中沢則夫氏と真宗明専寺副住職の月原秀宣氏から「戦争を語りつぐ」というテーマのスピーチがあり、それに、石の鐘の寺の住職、佐々木五七子さんのトーク、そして、『石の鐘の物語』の著者で黒姫童話館館長の和田登氏のトークが続いた。途中、真宗児童文学会の柳沢朝子氏による物語の朗読も披露された。トークの司会は、シンガーソングライターの清水まなぶ氏が務めた。清水氏が作った石の鐘をテーマにした歌の披露も行われた。
 トークのなかで、五七子さんが聴衆に向かって繰り返し語りかけた言葉が印象的だった。「私がいいたいのは、これだけです。地球はひとつ、和をもって尊しとなす。これが大切です」と。

 また、物語の作者である和田登館長は、五七子さんの言葉をうけて、次のようなことを語った。
 「今日に戦争を考える際に、どうしても落としてしまうことは、加害者の側に立った想像力を働かすことだと思います。戦争を題材にした多くの児童文学作品がありますが、それらは兵隊になって戦争に出て行ったお父さんを失う悲しみを描いていますが、その出て行った兵隊たちがなにをしたかは描かれていない。向こうにいって何をしたかという実態をもっともっと私達は知るべきだと思うのです。」
 そして、和田氏は、戦時下の子どもたちの間で流行した「夕やけこやけ」の替え歌を披露し、子どもたちの戦争への悲しみと反感がよく表されていると付け加えた。
  夕やけこやけで日が暮れない。
  山のお寺の鐘鳴らない。
  戦争なかなか終わらない。
  カラスもおうちに帰れない。
 集会は、このあと、清水なまぶ氏が、自ら作った大陸引き上げの歌を歌い、最後に、北信出身の高野辰之作詞の「ふるさと」を参加者全員で「兎追いしかの山、コブな釣りし…」と歌い解散した。

 長野は教育県だという。その真面目さと勤勉さは、軍国主義を浸透させる上でも、好都合だったのかもしれない。満蒙開拓義勇軍の志願者を集めるために、その勤勉さは効果を発したのだろうか。けっして豊かではない、山村のすみずみから多くの純真な少年たちが、国家の掛け声に呼応して、大陸に向い、果てた。それらを送り出した側の人々の悔恨の思いは、筆舌につくせないものだったろう。
 戦後、その反省の上に、平和と非戦のための教育が長野の人々の心のヒダの深くに浸透してきたのだと、集会に参加して感じた。戦後の平和憲法、とりわけ憲法9条は、これらの人々にとって、かけがえのない到達点であり、なにがあっても守り通すべき楔なのだろう。
 このようなユートピア的な非戦論が、今日世界の中で、どのような現実的有効性を発揮しうるかについては、「9条で国は守れない」と疑問をなげかける人もいるに違いない。しかし、このようなユートピア的非戦論が、まだ人々の心の中に深く刻みこまれていることが、国家権力の安易な軍事的冒険に対して、根源的な防塁となっていることを忘れてはならない。
 そもそもユートピア的非戦論を訳知り顔に笑う人たちだって、どれだけ世界の現実を知っているといえるのか。それは、かつての勇ましい帝国日本への危険な回帰願望を今風の言説に包んでいるだけかも知れない。
 国際貢献の名の下に、自衛隊を海外派兵し、武力行使できるかつての国家へとこの国を回帰させようとする為政者たちの野心の前に、北信の素朴な村人たちのユートピア的非戦論は、やさしさと力強さをもって立ちはだかっている。



 



 

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